花は、視界に入ることで対象に初めて認識される
       葉と異なり、色のバリエーションが遥かに多いということ自体が如実にそのことを証明している
       彼らはより確実に実を結ぶために、自らを彩る事を覚えた
       しかしそれは、人間であれ虫であれ対象がごく近くに存在する場合に於いてのみ有効であるという一種の限界をも
       同時に認めてしまう可能性が高いと言えるであろう























                  Sacred Flower







  














       ギリシャ・聖域



       泉守の朝は早い

       太陽が昇る頃、の住む小屋の窓には薄日が差し始める
       カーテン越しにその光を受けて、はいつものように目を覚ます
       …日本にいた時とは異なり、ここ聖域の生活は酷く娯楽に乏しい
       従って、以前は夜更かしをすることが日常茶飯であったも、その生活スタイルが一変してしまっていた
       早寝早起き
       …まさかこんな最果ての地まで連れて来られて初めて、そんな人間らしいバイオリズムを身に付けることができるとは思っても見なかった

       …単調ではあるが、健康そのものの生活
       がここで手に入れたものは、今のところそれだけだった



       「うう――ん、今日の任務はなんだっけ?」


       は、一人分の紅茶を淹れながら大きな手帳を開いた
       重々しくビロウドの細工が施されたそれは、教皇から直々に泉守に支給されたものであった
       まるでハードカバーの辞典のように重厚な造りを呈したその手帳が、は実は気にいっていた
       硬い表紙、ずっしりとした本体、そして柔らかな手触り
       この絶妙のバランスがいかにも任務の重要さを表現しているようだ…と本人は思いたかった



       「ええっと…、今日は泉の周りの草の手入れ、ね。…手袋を用意しなくちゃ。」



       カップに注いだ紅茶にミルクを入れながら、は手帳を閉じた






       草木の手入れ、泉の水と砂の採取、その成分の測定、報告書の作成、そして提出

       ルーティンワークと言われれば、本人も認めざるを得ないほどの単調な職務内容
       その仕事が重要であるという事は教皇から説かれるまでもなくも承知していた
       …泉の砂には銀星砂という貴重な成分が含まれ、その砂が聖衣の修復に必要な為、厳重な管理が要求されること
       また、それを生み出す環境の保全が必要である事
       聖域という世界に入ってきたばかりのにも自らの職務の重要性は理解できたし、認識もしていた
       ……だが、しかし

       が日本で描いていた「仕事像」とは、それは恐ろしくかけ離れすぎていた
       受動的な日常
       自らの意思で行動することもなく
       ただ、定められた職務を遂行するだけだ
       …それは、私でない他の誰かでも良いのではないか



       ……「私」がこの仕事をする意味とは



       がこのような疑問に襲われるのは、彼女が自らの職務に慣れてきた何よりの証であろう
       ただ、本人はそのことには気がついていない
       …元来、気付いていればこのような疑問には取り付かれることも無いのかもしれないが



       自分がこうしてぼんやりとした日常を送っている間に、日本に居る友人たちは、きっとバリバリ仕事をこなしているのだろう



       「キャリアガール、か。」



       はぽつり、と呟いて空になったカップの縁を人差し指で軽く弾いた
       小屋に来たときから在るそれは、とても良い品であるのだろう
       チン、と澄んだ音を醸し出した
       もっとも、それすらの耳には退屈に響くだけだった



       「さてさて、日が高くならないうちに、草むしりしなくちゃね。」


       は立ち上がってカップをシンクに運んだ












 









       小屋のドアを開けた瞬間、は不思議な感覚に捕われた

       森に囲まれたこの辺りには薄く霧が立ち込め、の視界を一層ぼんやりと曇らせていた
       …その霞んだ森の中から、甘い香りが漂って来る
       嗅覚を通り越して、の脳に直接染み込んでくる、この強い香り









       「金木犀だわ…。」









       は咄嗟に一人ごちた
       そして一息置いて、肺の奥までその甘い香りを吸い込む



       「そう……もうそんな季節になったのね。」



       吸い込んだ空気を大きく吐き出して、は目を細めた

       『金木犀の匂いは甘すぎて、歯が痛くなりそう』
       昔読んだ小説にそんなフレーズがあった
       本当に、甘すぎて…懐かしすぎて頭が痛くなりそう
       …でも、決して嫌いではない痛み







       何処に居るのだろう、金木犀は







       何時もこんなに強い匂いを撒き散らしながら、本人の姿はどこにも見えない
       この匂いを嗅ぐ度、何時もその姿を確認できなくて悔しかった
       まるで手の届かないところに在る望みのようだ
       その存在だけを明らかにして、永遠に見つからない
       触れたいけれど、決して届くことはない




       気が付くと、は森の中をふらふらと彷徨い始めていた
       …その香りの、濃くなる方へ













       カツン


       の靴に、小さな石が当たった
       はっとしてが我に返ると、そこは泉の縁だった
       危うく泉に足を踏み入れそうになって、は慌てて横跳びに避けた

       霧が明け始めた泉に微かな光が差し込み、水面の波紋の形に光を湛える
       それは何時も見ている泉とは思えないほど、とても神聖な光景だった


       「綺麗……。」


       は言葉を失ったように、暫し呆然とその光景を眺めていた
       自分が守っている泉が、こんなにも美しかったとは

       …この泉を、私は守っているのだ
       それは何と素晴らしいことなのだろう


       気持ちが昂ぶって、思わず涙ぐんでしまいそうになったの嗅覚に、再びあの強い香りが立ち込めて来た



       「ああ……、さっきよりもずっと強い香り。きっとこの辺りにあるのね。」



       徐々に開けてきた視界の中をは見渡した
       はじめは大きく…そして次は細かく



       「………え?」


       横に大きく移動するの視界で、緑と茶色の木々の間に銀色の何かが掠めた
       通り過ぎた視線を、慌てて木の間に引き戻す


       とは逆側の泉の縁の木陰に…人が立っていた
       銀色の美しく長い髪の毛が、波を打っているのがこちらからでもはっきりと見える
       そのあまりの長さに、女性かと思ったがよく見るとそれは男性だった
       片方の手を凭れるように木の幹に預けたまま、男はこちらを見ていた

       長めのキトンを纏った優雅なその姿は、まるで遺跡のレリーフから抜け出してきたような錯覚すら抱かせたが、ここ聖域ではそう珍しい出で立ちでもない

       …神官の一人だろうか、それにしても不思議な美しさを持った人だわ

       差し込んできた朝日に透けて、彼の目が赤い光を湛えた
       とても深い…まるでルビーのような瞳
       ピジョン・ブラッドというのはこんな色ではないだろうか
       の視線も、ずっと男の上で静止したままだった




       「……!?」




       一瞬、彼が微笑んだような気がした
       その次の瞬間には、男は踵を返しての視界から消え去った

       …私は、幻でも見ていたのだろうか?

       男の消えた泉には、金木犀の強い香りだけが漂っていた
       …彼の残り香のように甘く、そしてその存在だけをはっきりと残して





























       「…それで、はそれからどうしたんです?」

       「う―ん、なんだか頭の芯がぼうっとして、あんまり仕事にならなかったのよ。…勿論、草むしりはしたわよ、きちんと。」


       は、弁解するように笑いを作って見せた


       「そうですか。…それにしても誰なんでしょう?あの泉の周辺は誰でもが気軽に入れるところではないのですがねぇ。」


       男は、僅かに首を傾げた
       首の動きに合せて、菫色の長い髪の毛がさらさらと揺れる


       「…私は、身なりからして神官だと思ったんだけど。ムウはそうは思わないの?」


       の呼びかけに対し、ムウと呼ばれた男はしばし眉間を顰めて考え込んだ







          白羊宮




       聖域中枢部の第一の関門と位置付けられるこの宮の主・ムウは、色白の柔和な面持をした男だった
       …勿論、その中身まで柔和かと言うと、彼の知己は揃って無言で頭を横に振る
       それはともかく、彼はこの十二宮の主の中で唯一、弟子と共に暮らしている黄金聖闘士である
       貴鬼という年端も行かぬ少年がその弟子なのであるが、今は師匠の遣いで遠くヒマラヤまで出かけて留守にしている
       そのムウが何故泉守であると親しいのかと言えば、それは彼の持つ特殊技能と深く関係している



       この男、ムウは牡羊座の黄金聖闘士としての立場と同時に、聖衣の修復師としての存在でも知られている
       …聖闘士の数は、その天に満つ星座の数ほど
       故に、彼らの纏う聖衣の修復に対する需要も、必然的にかなり大きくなる
       が、今のところこの技術を継承しているのはこの男だけであった
       いずれは、彼の弟子である貴鬼も、その技術を継承するのかもしれない
       だが、それは今のところまだまだ先のことであるようだ



       彼のもとにひっきりなしに持ち込まれる破損した聖衣を修復するには、の管理する泉の成分である銀星砂が必要であった
       …従って、自然とこの二人が顔を合せる機会が多かった
       今では、は昼下がりのひと時をしばしばムウと歓談して過すようになっていた
       それはムウの居る白羊宮であったり、の家であったり
       …勿論、それ以上の何の関係でもない、と自身は思っているが……



       例によって、今日もはムウの元を訪れ、今朝遭遇した不思議な体験について彼に語っていた



       「…う――ん、やはり少し気に掛かりますね。あの泉付近には神官といえど易々と侵入できるはずはないのですが。
       …私のような黄金聖闘士クラスならともかく…。」


       ムウは、空になったのカップにポットから紅茶を注いだ
       その細かい気配りは、彼の持つ聡い性質の表れでもあった
       …だが、彼はそれを万人に対して見せるわけでもないようだが


       「あ、ありがとう。…う――ん、黄金聖闘士ねぇ。」

       「神官のような身なりをしていたとは言いましたが、その男はどんな特徴を持っていましたか?」


       満たされたカップを受け取り、礼を言った直後に首を傾げて俯いたに、ムウは菫色の瞳を細めて笑った


       「そうねえ…、髪は銀髪で、目が赤かったわ。…あっ、充血してるとか言うんじゃなくて、瞳が赤色だったの。すごく綺麗な。
       …まあ、光の加減でそう見えたのかもしれないけど。」





       貴方の黒い瞳だって、私から見るととても綺麗ですよ、と反射的に言おうとして、ムウはその台詞を飲み込んだ
       …今は、まだ





       胸の裏を押しとどめるように暫し考える仕種をして、ムウはに尋ねた


       「それって…デスマスクじゃないです…よね?」

       「やだ、そんな訳ないじゃない。ぷっ。」


       唐突な質問に、は思わず吹き出した


       「デスマスクな訳ないでしょう、もう。…その人の髪は、とても長かったわ。…そう、少し癖があるような髪だったわね。
       歳は…私よりは下ね、きっと。ムウよりも下かもしれない。」

       「………。」


       のその一言に、ムウは黙り込んだ








             …まさか、あの方では…!
             いや、あの方がそんなことを…

             ……有り得る、あの方であれば…









       「はぁ…。」


       ムウは、彼にしては珍しく人前で溜息を吐いた
       柔和なその顔には、隠しきれない苦悶の表情が浮かび上がる


       「どうしたの、ムウ?顔色良くないけど?」

       「い、いえ、なんでもないのですよ、。ちょっと思い出した任務がありましてね。」

       「あっ、それじゃあ、邪魔しちゃいけないからこれで失礼するわ。ありがとう、ムウ。」


       椅子からサッと立ち上がって、はカップを片付け始めた
       片手で制しかけたムウは逆にに止められた


       「いいから。…ムウ、休んでたら?」


       にあっさりと言われて、ムウは今の自分の狼狽振りを自覚した
       ムウと、二人分のカップを片付け終わると、はムウに軽く挨拶をして十二宮の階段を登って行った








       「…本当に、何を考えていらっしゃるのだろう、あの方は…。」







       の後姿が徐々に小さくなるのを見守りながら、ムウはまた一つ盛大な溜息を吐いたのだった





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